せめて顔を覚えていたらよかった。
あの、怖がりで泣き虫で、幼いクライデにいつも可能な限りくっついていた男の子が、エーベンホルツなのだという。生きていたのだという。
クライデの運命はフルートを携えてウルティカからやって来た。ヴィセハイムにおける感染者隔離区域、じりじりと地底へ沈みゆくアフターグローのコンサートホールで、クライデは彼のおかげで貴重なチャンスを授かることができたのだ。
エーベンホルツはクライデに、素晴らしいチェロを買い与えてくれた。
エーベンホルツはクライデに、これまで触れたこともないような生地を贅沢に使った衣装をあつらえてくれた。
エーベンホルツはクライデに、人と演奏する難しさと楽しさを鮮烈なまでに教えてくれた。
彼が、あの小さな男の子だった。
呼吸のたびに胸が震えた。喜びという感情は、日々をへらへら笑ってやり過ごしてばかりだったクライデにとってあまりにも強すぎる。
彼のことが大好きだ。エーベンホルツ。繊細で生真面目で純粋な、ひとりぼっちで顎を上げて生き抜いてきた張りぼてのウルティカ伯爵。汚物以下の扱いを受けつつ各地を転々としてきたクライデとエーベンホルツを繋いでくれた奇跡の糸をこそ、運命と呼びたかった。
クライデの運命はエーベンホルツだけだ。ほかのものは知らないし、必要ない。クライデはエーベンホルツとふたりで、押し付けがましい偽りの運命を否定する。
ふたり諸共にアフターグローの人々を巻きこんで死ぬのが正しい運命だなどと、そんなことをクライデは絶対に認めない。
「クライデ、クライデ……」
人の目からはこんなに大きな涙の雫がこぼれるものなのだな、と思いながら、クライデは微笑んでいる。
クライデの運命がクライデを抱きとめてくれている。クライデのために、美しい顔をぐちゃぐちゃに歪めて泣きじゃくっている。なんとなく懐かしいような気分になるから、きっと幼いころのエーベンホルツもこんな顔で泣いていたに違いなかった。
ふう、とエーベンホルツに体重を預けて溜め息をつく。
こんなに幸福でいいのだろうか。
町は無事で、エーベンホルツも生きている。クライデにもこうして自我を取り戻す時が与えられ、文句の言いようがない。彼はクライデの願いをすべて叶えてくれたのだ。
エーベンホルツが大好きだ。クライデの日々に突如として現れた夏の太陽のような人。彼はまだ地平に沈むには早すぎる。生きるべきで、愛されるべきだった。
「エーベンホルツ」
うん、とエーベンホルツが頷くと、クライデの頬にぼたぼたと涙の雫が落ちた。まるでいとけない仕草はクライデを微笑ませる。
「エーベンホルツ」
エーベンホルツのことが大好きだ。
「よく聞いてください、エーベンホルツ、これがあなたと交わす最後の言葉です」
だからクライデは彼のためだけに、クライデのまま死んでいけることが、本当に幸せだ。