こんなに巨大で美しいトパーズに触れたのは初めてだった。男は指先でうっとりと宝石の輪郭を撫でる。
間違いなく、売ればかなりの値になる。それを見越して換金前から天下のエンジェルズシェアへ飲みに来ているのだ。男の普段の「稼ぎ」では、年に一度顔を出せるかどうかというところだから、こうしてカウンター席でグラスを傾けるだけでもなんとなく背筋が伸びてしまう。
きっと夕方に街中でちょっとぶつかってしまったあの子どもは、外国からやって来た豪商の子か何かだったのだ。
モンドではあまり見ない、しかし手の込んだ清潔な衣服を身につけていた。懐がこのトパーズひと粒ぶん軽くなったところで痛くも痒くもなく、どうせすぐ忘れてしまうに違いない。だったら男のもとでモラに生まれ変わらせ、当面の酒代にしてやるほうが、よほど建設的というものだ。
「ほお? 立派な宝石だ。商売道具か?」
隣の席ががたっと動き、次いで能天気な声がする。とっさにトパーズを隠すという発想にもならなかったのは、隣に座った男の目線がそのまま一瞬でカウンターの向こうへ流れていったからだった。
あくまで礼儀として声をかけたにすぎない、といった様子の若い男は、楽しそうににこにこ笑いながらバーテンダーを呼びつけている。
「ディルックの旦那、蒲公英酒をボトルで頼む。それと適当なつまみもな」
「うちに適当なつまみなんてメニューは存在しない。注文は正確に願いたい、ガイアさん」
「……旦那様。蒲公英酒のボトルを一本とグラスをひとつ、それと魚介のアヒージョをひと皿いただきたいんだが?」
「明日も仕事じゃないのか? 酒とニンニクと油の臭いを撒き散らす騎士か。モンド市民もさぞ頼もしく感じてくれることだろうな」
「やれやれ、これだからな。注文したらしたで結局文句を言うんじゃないか」
赤毛のバーテンダーは鼻を鳴らしてから注文のために手を動かし始め、それを騎士だという隻眼の男が下唇を突き出しつつ眺めている。ちくちくやりあいながら、どちらも楽しそうに男には見える。
「……おっと、そうだ。忘れないうちに渡しておかないと」
延々と続く口げんかの途中で、隻眼の騎士が急に声音をやわらげた。腰に下げていた皮袋をまさぐって出てきたものを無造作にカウンターへ並べるので、不可抗力で男にもそれが見えてしまう。
思わず声が出るところだった。
騎士のすらりとした手が離れていくと、その陰から目を瞠るほど大きな宝石がいくつも現れたからだ。炎のようにきらめく赤い石が行儀よく、六粒も並んでいる。
ぽかんと口を開ける男こそがここでは場違いなのか、これほどの宝石を前にしてバーテンダーも騎士も構える様子が一切ない。騎士に至っては無邪気なような顔でにこにこ笑っている。
「俺の大切な親友からおまえにだ。自分で持っていると不安だから、先にこれだけ預かっていてほしいと言ってな」
「……直接顔を出せばいいものを」
「ならそう言ってやれよ。あいつも、遠慮しているからわざわざ俺の所まで来るんだぞ?」
「……ふん」
「ふん、じゃないだろ。まったく旦那様はいい歳をして素直じゃない……」
そうして呆れてかぶりを振るところで、見たこともない景色に呆けていた男と騎士の目が合った。警戒するでも気味悪がるでもなく、きしは男に向けて得意そうににこっとする。
「ふふん、凄いだろう。俺はおまえの六倍も宝石を持ってるぞ」
口調にも表情にも嫌味がまったくない。ついつられてへらっと笑い返してしまった男の頭上で、バーテンダーが鼻を鳴らす気配がした。
油とスパイスの香りが広がりだしたカウンターに肘を乗せ、騎士はおもしろそうに赤い宝石を親指で示してみせる。
「これだけの数を揃えるまで、それは苦労したんだぜ。なにせ運次第だからなあ」
姿のいい騎士が大袈裟に嘆き、肩を落とす仕草が滑稽で、男は肩を揺らして笑った。バーテンダーとの気の置けないやりとりといい、どうやら騎士は人見知りをしないようだ。
「運次第って兄さん、賭けでもやってるのかい? 騎士がそんなことしていいのかよ」
「おいおい、俺の日頃の働きぶりを知らないモンド人がいるとは驚いたな」
隻眼をいっぱいに見開く様子がまた愉快だ。笑いつづける男に、ちぇっ、と唇を尖らせてから、騎士は手慣れた所作でグラスにボトルを傾ける。
「働くことしか知らない男なんてつまらないだろう? いい男はちょっとくらいやんちゃもするもんさ。なあ旦那?」
「ノーコメントだ」
「それじゃ自分が面白味のない男だと自己紹介するようなもんだぜ?」
「それで結構。僕に不利益があるわけでもない」
ぴしゃりと会話を断ち切るバーテンダーは実に容赦ない。騎士のためエビの背腸を取り除く指先は几帳面なくせに、表情を殺した横顔は取り付く島もない。男が騎士の立場であればもう心が折れている。
だからこの横顔に向けてべえっと舌を出せる騎士は実に大したものだ。
すっかり感心する男へ再び向き直った騎士は、不敵に微笑みながらカウンターの隅に設置されていたカード束を手に取った。
どうだ、とそこから声をかけられて瞬いた。
「どうだって、何が」
「あの怖くてつまらん男なんて放っておいて遊ぼうぜ。モンドの酒飲みならカードくらいできるだろ?」
「そりゃあ、まあ」
この国の酒場でカードやチェス遊びができなければお話にならない。
男の返事を聞く前からカードをシャッフルしていた男は、わかりきっていた答えを聞いてまたにこっとした。
「そうでなきゃな。……さあ、だが勝者に酒を奢るってのもありきたりでつまらんな」
いたずらっぽく笑いながら、騎士が男の掌中を除きこむ。
同じように、男はカウンターに並ぶ六粒の美しい赤い宝石を凝視して唾を飲みこんでいた。
「参ったなあ。ついてないぜ」
心底困りきったという顔で、騎士は頭を掻いている。酒に手を伸ばす頻度も上がってきていた。
逆に男はといえば、もう夜が楽しくて楽しくて仕方がない。
先ほどまで騎士が見せびらかしていた宝石が、今やすべて男の前にある。それだけではなく、ちびちび舐めていた安ワインの代わりにグラスを満たすのは上等の蒲公英酒だ。宝石をすべて男に差し出した騎士は、結局つまらないと切り捨てたはずの方法で負けを補っていた。
「……兄さん、俺が言うのもなんだが、もう切り上げたほうがよくねえかい? 明日の飯がまずくなっちまうだろう」
「……いや、もう一回!」
「さっきだってそう言ってたじゃねえか」
「まったくだ」
しぶとく人さし指を立てる騎士に対して、バーテンダーも呆れ顔でいる。騎士の注文したアヒージョはもう何度温め直されたかわからない。
料理を粗末にされてバーテンダーも機嫌が悪い。腕を組んでいらいらと騎士を睨む顔がいっそおそろしいほどだった。
「いい加減にしろガイアさん。僕のために用意されたアゲートで興じるカードがいくら楽しかろうと、限度というものがある。……この貸しは高いからな」
声に質量があればとっくに押し潰されている。
ただ横で聞いていた男も震えあがる宣言は、騎士から哀れっぽい命乞いを引き出した。
「待て待て、な、最後だ! 本当にこれで最後にするから、なあ頼むよディルックの旦那。あんたもさ」
バーテンダーは鼻を鳴らすと横を向いてしまった。この世の終わりのような顔でいる騎士へ、蒲公英酒を飲み飲み、男は渋々を装って頷いてやる。
「……じゃあ、これが本当に最後だぜ、兄さん」
騎士は満面に喜笑を浮かべて頷いた。
男のグラスへ蒲公英酒を継ぎ足しながら、何やら懐を探りだす。
「最後だからな。俺もとびっきりを賭けるぜ。これで負けたら俺はもう二度とカードには触らない」
「おい……」
騎士がカウンターへ上げたものを見てバーテンダーが嫌そうにうめいた。男は逆に感嘆の吐息を漏らす。
「……こいつは凄いな。兄さん、あんたまだこんなもんを隠し持ってたのか」
冬という季節そのものから削り出して研磨したかのような、澄んだ水色の宝石だ。それが赤い宝石と同じく六粒、布包みから現れる。
「俺はこいつと、それから一年この店であんたに好きなものを奢る誓いを賭けよう。証人はこの旦那様だ」
「僕を巻きこむな。……それと、賭けるなら初めから自分の物にしろ」
男はすっかりいい気分で、すっかりうまい酒に酔っている。なので騎士の提案を大らかな気持ちで受け入れてやることにした。
どうせこの騎士はカードが弱い。最後の勝負も男の勝ちで終わるに決まっていて、ならば礼儀として相手にも一瞬であれ美しい夢を見せてやるべきだ。
「よし、なら俺は兄さんから巻き上げた宝石全部に、このトパーズも乗せるぜ」
男の宣言に騎士が楽しそうににやっとした。
「より、真剣勝負だ。……ああ旦那、暇だろ? ちょっと俺たちの代わりにカードを配ってくれよ。公平を期すためにもな」
「さっさと負けてしまえ」
「公平にと言ったばかりなんだが」
四角い銀のトレーを丁寧に磨いていたバーテンダーは大きな溜め息をついた。カウンターにトレーを伏せるとにこにこ笑う騎士の手からカードを奪い取り、素晴らしい速度でいくつかの山に分けてから再び重ねてシャッフルする。面白みがないなどとんでもない、どうやら彼も立派に遊び慣れたモンドの男だ。
カウンター越しに腕を伸ばし、男と騎士それぞれへカードを配る動きも優雅で迷いない。
手札の配布を終えると、バーテンダーは再びトレーを手に取って四隅を念入りに拭き始めた。それを騎士が、手札の確認もろくにせず、楽しそうに眺めている。
「昔とちっとも変わらない手さばきだ。懐かしい」
「そっくりそのままお返しする。もう少しくらいは成長していてほしかったな」
「見ているだけじゃあつまらないだろ?」
「君の百面相は滑稽だったよ」
騎士は不満げににゅうっと下唇を突き出した。その幼い表情を男が笑ったところ、あっという間にふてぶてしく片頬を引き上げる。負けが込んだ勝負のさなかに浮かべるにしては不似合いな微笑みだ。
「実はな。俺の右目には透視の能力があるんだ」
「……はあ? なんだよ急に」
「普段ならこの眼帯で抑えこめるんだが、酒に酔ってくると自制が利かなくなってな。カードの絵柄くらいなら簡単に見抜けるようになる」
「へえ、そうかい」
男はのんびり笑った。このお喋り好きで陽気な騎士が最後にどんな冗談を言うのか興味がある。
カウンターの中ではよほど呆れているのか、冷えた目のバーテンダーがトレーの同じ部分を繰り返し繰り返し拭いている。
「なら兄さん、俺のカードでどれが一番強いか教えてくれよ」
男の手札でダイヤを掲げ微笑むクイーンが、騎士に見えるというのならぜひ見てもらいたい。
ふふん、と、騎士は余裕の男へ不敵な笑みを浮かべた。
「へえ、いいのか? 女王様がうっかり俺に一目惚れして、そのダイヤを俺のために捧げてくれるかもしれないぞ?」
ぎょっと息を呑んでしまった時点で、もう男の負けは決まっていたのだろう。
裏口から悄然と出ていった男を目だけで見送り、ディルックはふかぶかと嘆息する。
「……わざわざ面倒なことを。率直に盗んだ宝石を返すよう言えば済むことだろう」
「それじゃああいつも俺も退屈じゃないか。モンドで、夜の酒場にいるのに、ただ仕事をするだけなんてぞっとしないぜ」
すっかり風味が変わってしまったアヒージョをぱくぱく頬張るガイアの傍らには、柔らかい布で丁寧に包んだ三種の宝石がある。アゲートとアイスクリスタルは旅人からの借り物で、トパーズは昼間、これも旅人が、合成台付近で先の男に掠め取られた物だった。
ディルックもガイアも多少は旅と戦闘の経験がある。これらの宝石ひとつ手に入れるためにどれほどの労苦がかかるものかを想像すると、泣きべそをかいて街をさまよう友人のためにひと肌くらいは脱いでやろうという気になった。
「ディルック、それにしてもおまえのカードさばきは相変わらず大したものだな。俺でも気を抜くと見逃しそうだった」
揶揄する声音に眉を顰める。こんな特技、役に立ったのはせいぜい騎士団に在籍していたころくらいだ。おとうとと悪知恵を出しあって研鑽を積んだ日々は、ディルックにとって恥ずべき過去だった。
「そんな顔するなよ。おまえのおかげで旅人は無事に宝石を取り戻せたんだぞ?」
ガイアはにやっと笑って蒲公英酒が半分ほど残ったグラスを持ち上げた。ディルックへ向かって少しだけ傾けてくる。
ふん、と鼻を鳴らして、ディルックはそれを見る。
「……僕は何もしていない」
ぺらぺらとうるさいお喋りも、情けなく負けつづけてみせたことも、いい具合に酒を勧めて酔わせたことも、そうして男の警戒心を払ったのはすべてガイアだ。ディルックは最後にほんの少しだけ手を出したに過ぎない。
それでも今夜はなんとなく、ほんの少しだけ気分がよかったので、ディルックはガイアの掲げるグラスを指先で軽く弾いた、
ちん、と微かに響いた音の向こうでガイアがにこにこしている。
「やっぱりモンドの男はこうでなくちゃな、ディルック!」
「君と一緒にするな」