ディルックがあれほど溌剌とした子だとは思わなかった、と呟くアデリンの非礼に、主人のクリプス・ラグヴィンドは楽しそうに笑うことで寛容を示した。そこでようやくはっとして、唇に手を添えてから深々と頭を下げる。
「申し訳ありません。決してディルック様を侮辱する意図などなかったとはいえ、失言でした」
「構わんよ。君も私たちの家族のようなものだ。子どもたちのことも私のことも、遠慮はいらない」
「恐縮です。旦那様」
風神バルバトスの加護を受けるモンドには今日もゆたかな風が吹く。丘に連なるぶどう畑からラグヴィンド邸まで駆け抜ける風は、前庭で会話するアデリンたちへ子どもの弾けるような笑声を再び運んできた。
モンドの名士たるクリプスにアデリンが雇われて幾年か経つ。その幾年のうちにディルックが生まれ、ラグヴィンド夫人が儚くなり、そして今年はクリプスに新しい息子ができた。嵐の日に屋敷の前に置き捨てられていたガイア少年だ。
「ガイアの様子はどうだ?」
泥と垢にまみれて凍える痩せっぽちの子どもは、柔らかな石鹸で磨きあげるとかわいらしい、利発そうな顔立ちをしていた。蜜色の肌はモンドではほとんど見かけないものだから、随分遠くから来たようだ。
眼帯で塞いだ右目はどうしても開けられない、見せられない、とかたくなに嫌がるので、ディルックを含めガイアの周囲の人間には口出しをしないよう強く言いつけてある。クリプスの指示だった。
ただでさえ実父に捨てられた傷は深いだろう。だというのに新たな家族と家があっという間にできてしまった。戸惑うガイアにこれ以上の負担をかけるべきではない、と語るクリプスへ、アデリンは深く頷いたのだった。
そのガイアが、今やディルックとともにぶどう畑を跳びまわっている。
「お元気でいらっしゃいますよ。最近はお昼の食事を残すこともなくなって……」
ふとアデリンは唇を噛んだ。続きを言うか言うまいかの逡巡はクリプスにも伝わり、主人の眉をひそめさせてしまう。
「なくなって? どうしたんだ?」
「はい……その、……遠慮せずしっかり食べるようにと、ディルック様がガイア様へ手ずから勧めてさしあげておいでです」
「あの子は……」
額に手をやってうなだれるクリプスを、アデリンはそっと笑うのだ。
ディルックのことを、これまでクリプスもアデリンもどちらかといえば穏やかな、気の優しい子だと思っていた。
それが大人の都合のいい決めつけでしかなかったことを教えてくれたのはガイアだ。
「兄として、ご自分を頼ってほしくて仕方のないご様子で」
「……ガイアの負担になっていなければいいが」
「……本当に困り果てたときには、私どもを頼ってくださっておりますわ。ガイア様も」
「君たちにもガイアにも苦労をかける」
「滅相もないことです」
背を丸めるクリプスへ、アデリンは直立のまま微笑んだ。心地よい風が仕事着の裾を膨らませて通り過ぎる。
「ガイア様がこれほど早くモンドへ馴染んでくださったのはディルック様のご尽力あってこそでしょう。逆に、ディルック様の新たな一面を私どもへ教えてくださったのはガイア様です。感謝こそすれ、苦労など」
ディルックもガイアも互いに対して、言葉や態度で無理をするな、我慢をするなと伝えあっているように見える。
ディルックはガイアが遠慮する様子を見せると強気に関わっていくし、ガイアはディルックが口を噤んで俯くとわざとふざけて本音を引き出そうとする。
ディルックの食事の手が止まればすぐにガイアが横から料理を攫ってアデリンに叱られる。逆にガイアが皿の上で食材を細かく細かく切り刻んでは少しずつ飲みこんでいると、隣のディルックがサービススプーンにそれをすっかりかき集めてひと口で食べてしまうのだった。
そうアデリンが食事の様子を追加で教えると、クリプスも深く微笑んだ。
「ディルックとガイアはいい相棒だな」
「ええ。仲のいいご兄弟ですよ」
微笑みあったところで、ぶどう畑からあっ、と子どもたちの声が弾ける。
「父さんだ! まだお昼なのに! お仕事はもういいの?」
「クリプス様、おかえりなさい!」
どんな大粒のぶどうよりも大きな目をきらきらさせて坂を駆けてくる子どもたちがかわいくないはずがない。アデリンは微笑んだまま一歩退き、クリプスは逆に前へ進み出て両腕を広げる。
「子どもたち! 私はひと仕事終えて腹ぺこだよ。もしおまえたちも私と同じなら、中でお茶にしよう」
やったあ、とガイアがクリプスの右腕にぶら下がる。ほぼ同時にディルックは左腕へ飛びつき、ガイアと同じ歓声を放っていた。
子どもたちと同じか、それ以上に楽しげかもしれないクリプスへ深く頭を下げてから、アデリンは颯爽と踵を返すのだ。
敬愛する主人と彼のふたりの息子のために、たっぷりの紅茶と夕食に響かない程度の軽食を用意するという幸福な急務が、屋敷の中でアデリンを待っている。