休み休み

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有意義な休日

 

 

 モンドはもともと晴天の多い国ではあるが、その日は特にとびきり空が青かった。
 城下町をさわやかに吹く風はよく乾いていて、日射しに炙られた穀物と熟れた果実の香りがする。昼下がりの通りを逍遥するガイアの足音も弾もうというものだ。
 腰に一応剣を佩いているものの、今日は久しぶりの休暇なので楽な格好でいる。こんなによい天気なのが嬉しくて、つい予定もないのに宿舎を出てきてしまった。顔馴染みを見つけ、見つけられるたびに、ガイアの足はそれなりの長さ立ち止まるため、なんと大通りをまだ三分の一も進めていない。今も軒先で涼んでいた老爺に誘われてチェスをひと勝負やったところだった。
 なかなかの熱戦だったので腹が減った。屋台の端から順に覗いてみるか、と首を巡らせた途端にガイアはぎょっとひとつきりの目を剥く。
「……近いだろ顔が!」
「……うるさい」
 いやそうに眉を寄せるディルックは書類挟みを脇に挟んで腕を組む。いつもの暑苦しい黒コート姿で、彼はかわいそうなことに仕事中らしかった。
「前を見ずにこっちへふらふらと歩いてきたのは君だろう。ひとを見るなり大声を上げられて、文句を言いたいのは僕のほうだ」
「そいつは失礼したな。前しか見ないおまえと違って、俺は気になるものが多すぎるんだ。つい気もそぞろになっちまう」
「まるで幼児のする言い訳だな」
 ふん、とディルックは鼻を鳴らした。そのままじろじろと傲岸にガイアを上から下まで眺めまわす。
「……ついに騎士団を追い出されたか」
「……ご期待に添えず申し訳ないがな旦那様。一般的に労働には休暇がセットになっているもんなんだぜ」
「もちろん知っている。騎士団がそんな人道的な福利厚生を理解し実践していたとは、寡聞にして知らなかったが」
「ほお。そいつは随分情報が遅れてるんじゃないかディルック? 精進しろよ」
 ガイアがにこっと笑うとディルックは人を殺せそうな目で睨んできた。今日の朗らかな陽気にまったくそぐわない陰鬱さへ、ひらりと手を振る。これで今日の風の香りは彼の仏頂面にも届いただろうか。
「じゃあな。俺は休暇を満喫してる途中なんだ。お仕事頑張れよ、旦那様」
 ガイアがそう言うと、ディルックはすばやく瞬きした。うっすらと口をひらき、閉じ、また開ける。
「……これからの予定は?」
「……おまえはいつから俺の母親になったんだ? 飯だよ。腹が減ったからな。屋台で食べ歩きだ」
「なら店に来い。奢ってやる」
 驚こうとするガイアの胸に書類挟みが押しつけられる。なんと、選択肢すら与えられないようだ。
 さっさとコートを翻して歩きだしたディルックの背を見る。このままガイアが大通りへ向かったら、いったいこの男はどんな顔をするだろう。だがガイアのもしもはそこで止まってしまい、決してその先へ進むことはないのだ。なぜならガイアにそんなまねができるはずもないからだ。
 結局しぶしぶついていくガイアを背中の目で把握してでもいるのか、ディルックは振り返らないまま話しかけてきた。
「都合がいい。君にもそれを見せるつもりだった」
「……ディルック、俺は今日非番なんだぞ」
「そうか。それで?」
「……なんでも」
 手触りも上等な書類挟みをぱかりとやると、早速密輸の二文字がガイアの目に飛びこんできた。いやになる。こんなにいい風が吹く日に見たい文字ではない。
 視界の隅に常にディルックのコートを入れて歩きつつ。全ての資料にざっと目を通す。どうもちんけな宝盗団の小銭稼ぎにモンドの酒が利用されているらしかった。
 つい溜め息も出ようというものだ。
「まったく、どうせやるならばれないようにやれよな。いつもいつも面倒ばかり増やしやがって」
「……ガイアさん」
「わかったわかった。すまんな、育ちはいいがどうにも生まれつき口が悪いんだ」
 書類挟みをしっかちりと閉じ、大股でディルックの横まで追いつくと、ガイアは彼の横腹へ借り物を力いっぱい押しつけた。このくらいはしてもいいだろう。どうせこの男に効果などない。そしてガイアの予測通り、実際ディルックは眉ひとつ動かさず書類挟みを受け取っているのだった。
「いつにする?」
「明日は無理だぞ、いくらなんでも急すぎる。……そうだな、三日くれたら都合をつけられるだろうな」
「二日だ」
「……あのなディルック」
 つまらなそうに伏せられた瞼の下からガイアを睨むのは、熟れたりんごのような目玉だ。赤く、丸く、よく光るが、まなざしはあの果物のようにかわいらしいものなどでは決してない。
「二日だ。それでなんとかしろ」
 長く、大きく、嘆息したガイアを、いったい誰が責められるというのか。ディルックの視線はいっそう険しくなったが、知ったことか、と思う。
「……休日の半分を潰されたあげく、翌日からの激務が現時点で確定か。そして旦那様はそんな俺にランチを奢ってくださると。実にありがたい話だ。涙が出てくるな」
「泣くまねもできないくせによく言う」
 ガイアの悲嘆に、ディルックは一顧だにせず鼻を鳴らした。
「どうせ残りの休みは酒場で潰すつもりだったんだろう。こちらのほうがよほど有意義だ」
「すごい自信だな。俺がおまえと一緒に過ごすのが有意義だって?」
「違うのか?」
 ガイアはかぜで翻ったどこかの洗濯物に気を取られて上を向くのに忙しかったので、その質問には答えられなかった。やはり、何度見てもよい天気だ。
「それに、どうせ口では三日と言いながら、君は頭でとっくに二日で済ませる算段を立てているだろう」
 空に浮かぶ雲が何かの形に似ている、とガイアは思った。剣のようにも、シャンパングラスにも見える。
「そんなわけがあるかよ。旦那様は随分俺を買い被ってくださるが……」
「君こそ僕を見くびるなよ。そこまで甘くはない」
 ディルックの返事は低く、短かった。
 ガイアがちょっと顎を引いて伺った横顔はまっすぐ前を向いている。自分が今何を発言したのかすっかりわかっており、否定も訂正もする気はないという面だった。
 その顔でさら口をにうっすら開けるものだから、ガイアはまた気を向ける何かを見つけようとした。たとえこの世で一番気がかりなものが今まさに視界に収まっていようともだ。
「僕は君ならできると知っている。それだけだ」
 ガイアは自分のブーツの爪先を左右順番に眺めている。唇を前歯のあいだに巻きこんできつく抑えている。
 ふん、と義兄が鼻で笑う気配を聞いている。
「……もう打ち止めか?」
 ガイアは黙ってディルックへ肩から体当たりした。
 もちろん、隣を歩く男はぐらっともしなかった。