休み休み

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婚約解消のち婚約

 

 

「やくそくよ、ガイアお兄ちゃん」
 少女は大切そうにガイアの手をとり、実にうやうやしく、そして慎重に、小指と中指のあいだの指へ薄い金属の輪をはめこんだ。
 まるで物語のヒロインだな、などと阿呆なことを思いながら、ガイアはにこにこと少女のつむじを眺めている。
 昼下がりの噴水広場だ。あちこちから向けられる微笑ましいものだったりこうきしんに満ちていたりの野暮な視線が全身に刺さって痛いほどだが、ガイアの腹の内で暴れ回る羞恥や罪悪感など、彼女の誠意の前ではあまりにもちっぽけでくだらないものだ。ひとかけらですらもこの場で覗かせてはならない。
「わたしが大きくなったら、わたしのこと、ガイアお兄ちゃんのおよめさんにしてね。……このゆびわは、やくそくのしるし!」
「実に光栄だが……こんな立派なもの、本当に俺がもらっていいのか? エレーナ? 大事なものだろう」
 小さな指輪はガイアの薬指の第一関節に引っかかっている。台座にきらめく緑色のガラスは緻密なカットが施されており、子どもの玩具で片づけてしまうには惜しいような逸品だ。
 すると馴染みの飲み仲間の末娘は、りんごのような頬をぷうっと膨らませてガイアを睨んだ。
「だいじだからあげるんでしょ!」
「ごもっとも」
 ガイアはにこっとした。
 真っ赤な顔の、ありったけの勇気を振り絞ってくれた五歳の女の子へ跪き、可憐な指輪が引っかかった手を胸に置く。
「ありがとうエレーナ。おまえが大きくなって俺をお婿さんにしてくれるまで、この指輪は大切にさせてもらうぜ」
 少女は赤い顔のままかわいらしくはにかんでくれたが、そこが限界だったらしい。くるっとガイアに背を向けると、転がるように石畳を駆けて行ってしまった。
 
 
「君、フィアンセがいるらしいな」
「耳が早いな旦那様? 俺がプロポーズを受けたのは今日の昼だぜ」
 エンジェルズシェアのどあを通るなり半目できつく睨まれるのだから、この店のオーナーは接客というものをあまりにも軽んじている。カラフェで供されたワインをゆっくり楽しむガイアだが、カウンター越しの仏頂面は若いワインがひらいていく過程と比してあまりにもつまらない。
 ふん、と鼻を鳴らし、ディルックはよく熟れて柔らかそうな夕暮れの実を丁寧に剥き始める。
「ここをどこだと思っている? 誰も彼もが嬉々として君のことを聞かせてくれたさ」
「なるほどな。人気者はつらいぜ」
「君もその減らず口をやめて少し耳を澄ませてみたらどうだ。皆、エレーナが何日で君へのプロポーズを忘れるかで賭けているぞ」
「……そこはせめて何年かにしてくれないか?」
 ディルックは切り分けた果実を器に盛りつけながら、微かに眉を寄せてガイアを見つめた。
「……さすがにうぬぼれが過ぎるのでは?」
 余計な世話だ。
 突き出した下唇へグラスを傾け、ワインを少しだけ含む。まだ香りも味も硬いものだが、ガイアは若いワインも好きだった。ここからどう育ってどれほど香り高く味わい深いワインになるのか、未来を想像するとわくわくする。
「明日になって、やっぱり指輪を返してほしいなんて言われたショックだな。スピード離婚か」
「まだ結婚していないだろう。……指輪?」
 ベストの隠しにはハンカチに包んだ婚約指輪が収まっている。自宅で保管し、いつか彼女が冗談の通じる年齢になったら笑って返却するつもりでいたが、しばらくは持ち歩いていたほうがいいのだろうか。
 きょとんと目をまるくするディルックが興味をみせたので、懐から取り出した指輪を貸してやる。しっかり水気をぬぐった手でそっと玩具の指輪をつまんだ男は、さまざまな角度で明かりに透かしてから感心したように呟いた。
「悪くない細工だ。うちのディナーコースくらいならこれで賄えるだろうな」
「……なんてこった」
 まだ自分の名前のスペルも知らないだろう子が持ち歩くものではないだろう。今度彼女の父親に会ったら釘を刺しておこうと決める。
 それに、と、ガイアは眉間の皺に気づかれないよう少し顔を傾けた。ワインを飲みながらディルックの指先を眺める。
 五歳児が持ち歩いていい玩具ではなく、そしてもちろん、自分などが彼女からこのように受け取っていいものでもない。この指輪はいかに彼女の両親が彼女を愛しているかの証だ。
「……ちなみに今日ジャスティンは」
 よくこの店で顔を合わせる、少女の父親について訊ねてみる。
「上で飲んでる」
 ガイアの思惑を何もかもすっかり理解したような顔で、ディルックは丁寧にハンカチに包みなおした指輪を返してよこした。
「もし君が今のペースで飲むなら、そこのカラフェが空になる前に会計をしに来るだろう」
「恩に着る」
 受け取ったハンカチはカウンターへ乗せたままにしておく。
 目に映る場所にあったほうが、返す際もたつかずに済むだろう。どうせ彼も昼間のプロポーズについてガイアと話したくてたまらないはずだから、声をかけるきっかけについて準備しておく必要はない。
「いやあ、実に残念だ。俺もついに身を固める日が来たと思ったんだが。高嶺の花だったなあ」
「そうだな」
 傷心をワインで慰めるガイアへディルックはあまりにもにべなかった。指輪を返したあとは再び果物ナイフを動かしていたが、つまらなそうに顔を歪めるガイアに気づくと何度かすばやく瞬きする。
「……もしかして指輪を手放すのが惜しいのか? なら、僕が代わりに買ってやるから我慢しろ」
「ガキか俺は」
 急にひとを駄々っ子のように扱うのはやめてほぢい。呆れて言い返したガイアだったが、ディルックはそれに輪をかけて呆れ果てたという目をした。
「ガキじゃないから言ってるんだ」
「はあ?」
 ガイアは顰め面のまま、少しだけ酸化したワインを含んだ。
 飲みこもうとして激しく咽せてしまったために、美しい婚約指輪を包むハンカチに少し染みができたのだが、これはガイアのせいではないと思う。