「テイワットで一番おいしいぶどうジュースを飲ませてくれると言うから、ここへ連れてきてもらったの」
上品に、それでいて無邪気に微笑む少女は素足でぶどう畑の土を踏んでいた。白い柔らかそうなワンピースから伸びる手足はふっくらしてまるく、クレーとほとんど変わらない年頃のように見える。
そんな年端もいかぬ少女を甘い言葉でモンド城から拐かした男を、ディルックは軽蔑のまなざしで突き刺すのだ。
「……まさか騎士団の腐敗がここまで根深いものだったとはな」
「その不名誉すぎる誤解については、どうやら日を改めてじっくり話しあう必要がありそうだ。……それよりディルック、彼女へアカツキワイナリー最高の一杯を頼む」
ディルックはふと眉をひそめた。
興味深そうにぶどう畑を見回す少女の背後に控えるガイアの様子がどうもおかしい。ありていに言えば、行儀がよすぎる。静かな微笑みを浮かべて直立する姿はまるで騎士のようだ。
「……おい。おまえが今何考えてるかぐらいは俺にもわかるんだからな」
半目のガイアが無声でそう囁いた。ディルックがさらに眉を寄せると、一瞬だけにやっとしてから再び唇を動かす。お行儀よくしろよ、と、自分を棚に上げた澄まし顔をする。
「あら……」
少女が小さな手で小さな口元を覆ったのは、ちょうどガイアが小癪な面を繕い終えたときだった。ぶどう畑を渡る風が、少女のワンピースと結い上げた髪を軽く揺らしている。
花のようだ、と思う。可憐な容姿に対しての比喩ではなく、彼女のありようそのものが花に似ている。不思議と、何か心なぐさめるものをもつ子どもだった。
「いけないわ。私ったら自己紹介がまだじゃない。ごめんなさいね」
「とんでもない。あなたが謝ることなどありませんよ。それに、名乗っていないのはこの男も同じです」
ディルックは黙って眉を片方上げた。
うやうやしく腰を折ることでディルックの視線から逃げた西風騎士団騎兵隊長の前に立つ少女が、口元から下げた手をひらりと胸へ添える。辛気臭い仏頂面、とよく義弟に揶揄されるディルックを物怖じせずに仰ぎ、かわいらしく笑った。
「私はナヒーダよ。スメールではクラクサナリデビと呼ばれることが多いわね。……ひょっとしたら、モンドでは魔神ブエルの名のほうが通っているのかしら」
ディルックは黙って、速やかに、湿った土へ膝をついた。
「神に遅れて名を告げるご無礼をどうかお許しください。モンドのディルックと申します……ブエル様と?」
「ナヒーダと呼んでちょうだい。でも……随分簡単に信じてくれるのね?」
「愚弟があなたの後ろで冷や汗をかいている理由を、先ほどから考えていました。まさか草神の供をしているとまでは考えが至りませんでしたが」
あら、ともう一度呟いてナヒーダは背後を振り返った。ガイアとディルックの微笑みをしげしげ見比べる。
「あなたたち、兄弟だったの……」
にっこり笑うガイアのエスコートで、草神は景色のいいガーデンテーブルへ着席した。そのあいだに用意したぶどうジュースと甘い菓子をディルックが運んで行くと、ナヒーダは手を叩いて喜んだ。
「素敵だわ。夢の国のお姫様というのはこんな気分なのかしらね」
なぜスメールの知恵の神がモンドに、と尋ねたところ、なんと彼女もかの旅人の友人であることが判明したので、ディルックはつい黙りこんでしまった。いったい何をすれば、一国の神と知遇を得たうえで友誼を結ぶという事態が起こるのだ。
そして、どうやらガイアは、騎士団本部で旅人がリサやジンに状況説明をするあいだの接待役であるようだった。自分ひとりでは持て余すと判断して、アカツキワイナリーまではるばるとディルックを巻きこみに来たらしい。
珍しく、正しい選択だ。
「ナヒーダ。モンド城への帰路は、どうか愚弟とともに僕も同行させていただけませんか」
「ええ、もちろんよ。友人が増えたことを旅人に自慢しなくちゃ」
楽しげなナヒーダの背後で露骨にほっとした顔をするおとうとをひと睨みしてから、ディルックはテーブルの傍で片膝をついた。胸に手を置き、微笑みながらスメールの知恵の花を仰ぐ。
「友人になった記念に僕が贈り物をしたら、受け取ってくださるでしょうか。ご気分を害されなければよいのですが」
「たぶん、あなたが想像しているどんな失礼なことも、私を怒らせたりはできないと思うわ」
ナヒーダは行儀よく、砂糖菓子とぶどうジュースを交互に楽しんでいる。
小さな両手でグラスを支えながら首を傾げる仕草はあどけなく、それでも彼女の正体を知った今となっては威儀を感じずにはいられない。
「教えてちょうだい。出会ったばかりの私に、あなたはいったい何を贈ってくれると言うのかしら?」
ふっ、とディルックは微笑んだ。
「柔らかく、歩きやすい靴を一足。城下町で僕の買い物に付きあっていただきたいのです」
「……あら」
草神の目元にぽっと羞恥の色がたちのぼる。その背後ではガイアが顔に手をあてて天を仰いでいた。普段なら決して見逃さない疎漏が目に入らないほど、余裕がなかったらしい。
「そうね、本当は外を歩くときは靴を履くのよね。これまで気にする必要がなかったからつい……」
ぜひお願いしたい、と言うナヒーダへ微笑み返しながら、ディルックは視界の隅でガイアを窺ってもいる。
普段からくだらないたくらみに散々ディルックを使っているのだ。口数が減るほど気弱になってからではなく、こういうときこと真っ先にディルックを思い出せばいいものを、つくづく妙な遠慮癖がついてしまったものだ。
ふん、と想像の中で鼻を鳴らす。
草神に靴を贈って旅人のもとへ帰したら、今回ばかりはこのおとうとにも特別に何か贈り物をしてやってもいいかもしれない。