休み休み

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距離を置かれるよりずっといい

 

 

 ガイアがいない。
 ディルックはちょっと眉を顰めて溜め息をつくと、油の残量を確かめたカンテラをぱっと掴んで夜の葡萄畑へ忍び出た。
 川辺から噴き上がってくる涼風に一旦背を向け、マッチを擦ってカンテラに火を入れる。念のためにざっと足下を照らしてみたが、もちろんラグヴィンド家の優秀なメイドたちにより丁寧に清められたポーチには、義弟のブーツ跡など見当たらなかった。けれど別に構わない。ディルックはガイアの行く先を知っている。
 ポーチを駆ける勢いそのまま石造りの階段を駆け降りると、もうディルックに見えるものは一面の闇と、けなげにカンテラが照らすごく僅かの範囲のあぜ道だけになる。左右には風に吹かれてざわざわとぶどうの葉が揺れて、たまにどこか上のほうからフクロウの声がする。ディルックはこんな夜なんてちっとも怖くないので、ひたすらまっすぐにあぜ道を駆けた。野原を越えて木立の隙間をすり抜け、雪山の冷水が流れる小川のほとりに向かった。暗闇なんて怖くない。ディルックにとって何よりおそろしいのはもっと別のことだ。
 家の前でおとうとの足跡を探したときよりもはるかに慎重に、ディルックは精一杯背伸びして掲げたカンテラでぐるっと周囲を照らしてみた。
「ガイア!」
 ガイアがディルックの家の子になってすぐのころ、モンドからいなくなってしまったことがある。父がスメールへ向かって出した商隊にこっそり紛れこんで、実際かの知恵の国の土を踏んだそうだ。帰ってきたガイアは玄関をくぐるときいかにも気まずそうにしていた。
 スメール生まれなのかと訊くと、違うと言われた。
 本当の父親や、親類が住んでいるのかと訊くと、たぶん違うと言われた。
 じゃあなんでと訊くと、ガイアは少し困った顔になって俯いたのだ。
「えっと……ちょっとひとりで考えごとがしたくて」
「……それでスメールまで行ったの?」
 感心したらいいのか、呆れたらいいのか、ディルックは咄嗟にわからなくなってしまった。しばらくぽかんとしていたせいで、ガイアもそのあいだは随分居心地が悪そうだった。
「うーん……ねえガイア、ひとりになりたいなら僕が特別な場所を教えてあげる。だから外国になんて行かないでよ」
 そこはディルックが父から教わった釣り場のすぐ近くにある。
 ドラゴンスパインから転がり落ちてきたのか、それとも璃月から風で飛んできたのか知らないが、大きな岩が浅瀬にごろごろ転がっていて、隙間に潜りこむと洞窟にいるみたいで少しどきどきする。周囲は静かで涼しいし、小腹が空いたら釣りをしたり、木の実を齧ったりもできた。ディルック自身はガイアが家に来てからぱたりとそこへ行かなくなったから、今度は父のように自分がガイアへその場所を教えてやることにしたのだ。
「ありがとうにいさん。大事な場所を俺に教えてくれて」
 少し眉を下げて笑うおとうとに、ディルックは胸を張って応えたものだ。
「だけど、あんまり長くいすぎないでね。結構冷えるし、それに僕がつまらないから。帰ってこなかったら僕が迎えに行くからね!」
 うん、とこっくり頷いたくせに、ガイアはいつも帰りが遅く、結局ディルックが迎えに行くまで岩陰でぼうっとしているのだ。毎回、今日こそ叱ってやろうと思うのに、見つかると嬉しそうににこにこ近寄ってくるガイアのせいで、説教は毎回先延ばしになっている。
 まず間違いなく今夜もそうだろうなと思いつつ川辺を歩くディルックだ。
「……ガイア! もう出ておいで! 夕飯までに家にいないと、父さんが心配するよ!」
 ななめになった倒木の下を覗きこんで怒鳴っていたら、頭上からふふふっとたまらずこぼれたような笑い声が降ってきた。
「にいさん、俺はこっち。……全然上を見ないんだもんなあ」
「……だっていつも君は岩の陰にいたじゃないか」
「うん」
 川辺に転がる巨石のひとつに腰かけたガイアが、にこにこしながらディルックを見下ろしている。
「潜りこもうとしたら窮屈で無理だった。背が伸びたみたいだ」
「降りてきて」
 カンテラを掲げて厳しい顔をしてみせる。夕食までに何食わぬ顔で戻っておかなければ、ガイアの秘密の場所を奪うことになってしまうかもしれない。
 岩から滑り降りてきたガイアは、ディルックの思考をすっかりわかっているような顔でにっこりした。
「もうひとりじゃここには来ないよ。にいさん、今度はふたりで釣りをしに来よう」
 最後だと思うとつい立ち去りがたくてこんな時間になってしまった、と笑うおとうとの顔を覗きこむ。
「……いいの?」
「うん」
 ガイアはやはり笑っていた。
「もう隠れていられる図体でもなくなったみたいだ。馬車の荷台にも岩陰にも潜りこめないんだから、うじうじ悩む時間は終わりにするよ」
「……そう」
「今までありがとう、にいさん。長いこと俺にこの場所を貸してくれて」
 翌日、ディルックとガイアは釣り竿を担いでこの川辺を訪れ、並んで座った岩の上で釣果を競った。
 
 
「……なんだよ。何見てるんだよ」
「いい歳をして何をやってる」
「見てわからんのか? 岩の隙間に挟まってるんだ」
「……そういうことじゃない」
 誓ってディルックは水を汲みに来ただけだ。ワイナリーのオーナーとして、近隣河川の水質は定期的に調査する義務がある。
 まさかそれで岩と岩の僅かな隙間に膝を抱えて収まっている義弟と鉢合わせるとは思わなかった。
 ガイアもさすがに居心地の悪い顔をしている。それはそうだ。実際快適とは言いがたい環境だろう。
 十歳かそこらの年齢で、もうディルックたちはとっくに岩の下へ潜ることなどできなくなっているのだ。
「……なあ、頼むから早く行ってくれないか? それとも旦那様には嫌がる人間を眺めて楽しむような高尚なご趣味があるのか?」
「それは君の悪癖だろう。一緒にするな」
 清潔な小瓶に水をとり、しっかり蓋をして懐へしまう。ディルックがなんのためにここへ来たか、ガイアもそれで理解したようだった。抱えた膝の上に顎を乗せ、窮屈そうに体を丸めながら隻眼でただディルックを窺っている。
 目が合うと口元が嫌そうに歪んだ。
「……何を心配しているのか知らないが、ここにいたいなら好きなだけいればいい。ただ、抜け出せなくて手を借りたいなら今だぞ」
「……考えごとがしたかったんだ」
 ふん、と鼻を鳴らした。二十年近くも前と同じ言い訳をする男は、どうせ悩みも当時と変わらないのだろう。今ならばディルックも、なぜあのときガイアがスメールを目指したのかをわかっている。
 なぜ岩の下に潜りこめなくなったからという理由でひとりでいることを諦めたのかも、今はわかるつもりだ。
「……勝手に場所を借りて悪かったよ。もう来ないから安心してくれ」
 過ぎ去る時を理由に何度諦めるふりをしても、結局ガイアはいつまでもモンドではないふるさと、ディルックではない家族のことを自分自身から切り離せずにいる。
「何か勘違いをしているようだ」
 ゆっくりと腕を組む。岩の隙間で縮こまる成人男を見下ろして、ディルックは淡々と、ただ事実のみを口にした。
「僕は君にここを貸したんじゃない。あげたんだ。父さんがかつて僕にここを譲ってくれたように。だから好きなだけいればいい。僕にそれをどうこう言う権利はない」
 どうして今更こんなことを言わなければならないのか。聡いくせに妙なところが鈍いおとうとの、まるく見開かれた目を一瞥し、コートを翻す。
 邪魔はしない。けれど、もう夜になっても探してやりもしない。時間と共にディルックたちの関係も変化している。
「……ディルック」
「なんだ。……まさか本当に立てないんじゃないだろうな」
「いやそれは、たぶん、問題ないんだが」
 戻ろうとする足だけを止めた背中に、その、と口ごもるガイアの気配を受ける。
「……釣りでもどうだ」
「……用事は済んだのか?」
「ああ。……今日のところは、もういい。どうでもよくなった」
 ディルックは振り返らずに口元だけで笑った。
「竿と道具を取ってくる」
 狭い狭いと言いながら並んで座った岩のうえで垂らした釣り糸はさっぱり魚を引き寄せなかったが、ディルックもガイアも、釣果などちっとも気にせずに日没まで嫌みと皮肉を投げ交わしつづけた。