しまった、と、ガイアは久しぶりに心からそう思った。
「おまえ、まさか暗い所が苦手なんじゃないよな?」
並んで城壁に腰かけ、ドラゴンスパインと風車のあいだに沈みゆく西日を眺めながらのんびし雑談していた蛍が、その瞬間さっと表情を強張らせたのだ。
さすがの自制心ですばやく笑顔を取り繕っていたが、ガイアとて目敏さには多少の自信がある。失言を自覚するには十分すぎる時間だった。
モンドの栄誉騎士たる少女のことを、ガイアは親友だと思っている。そう本人に向かって告げたことも一度ではなく、そのたび冗談だと判断した蛍から適当にあしらわれてきたが、事実として常に興味深い行動を起こす彼女を大変気に入っている。
そのせいで距離の測りかたを間違えた。
瞬きのあいだに自省を済ませ、ガイアは顔全体を使って大袈裟ににっこりする。
「へぇ? どうやら……新しいネタが手に入ったようだ」
「もう……私を脅したってなんにも出てこないよ」
「いやいや。これをネタに栄誉騎士様を恐喝すれば、ひょっとすると蒲公英酒の一杯くらい……」
「ぶどうジュースだったらいいよ」
ちぇっ、とガイアは夕焼け空に向けて舌打ちしてみせた。
「わかってて言ってるな? 蛍?」
今度は蛍が満面の笑みを浮かべる番だった。
「なんのこと?」
これで手打ちだと愉しげな瞳が言っている。改まった謝罪ができないガイアのことを、やはりこの年若い親友にすっかり見抜かれていた。
苦笑しながら組み替える脚の下には、一日を終えるモンドの人々が長い影を踏み踏み賑やかに行き交っている。あのうちの半数以上は、これから夜明け近くまでを酒場で過ごすのだろう。モンドはそういう国だ。もちろん、ガイアもそのつもりでいる。
「ガイアも早くエンジェルズシェアに行きたいんじゃない?」
隣で爪先をゆらゆら遊ばせながら、蛍もガイアと同じ景色を見下ろしていた。楽しそうに笑う横顔にどうも含みを感じる。
「今夜のバーテンダーは誰かな? この道を通るかもしれないね」
「ははっ。おまえは本当にディルックの旦那がお気に入りだよなあ」
「ガイアもでしょ?」
「冗談きついぜ。モンドに吹く風だけで酔っ払ったのか?」
ふふっとかわいらしく笑いながら、蛍はまだ人ごみから誰かを探しだすつもりのようだ。ガイアに対する無邪気な反撃を装って、沈む夕日を確かめずに済むようにしている。
世界にひとりぼっちでいるような輪郭だった。
ガイアに悪気は一切なかったが、この時間に蛍を呼び止めたのは間違いだったのかもしれない。あまり顔を見る機会がないのでつい浮かれてしまった。
蛍は勇敢だ。賢く、思いやりもある。ガイアの焦がれる正しさが人のかたちをなしたら彼女のようになると思っているし、そこに頑固さをどっさり足すと義兄ができあがる。いつもにこにこしているぶん、ディルックよりも蛍のほうがはるかに付きあいやすかった。
そんな彼女が、まさか本当にたかが暗闇をおそれているとは思わなかったのだ。昔から治らない自分の軽率さがつくづく嫌になる。
なぜ暗闇が怖いのだと蛍に問いを重ねることだけは、なけなしの良心で押さえつけた。
「おまえも喉が渇いただろう? アップルサイダーでもどうだ?」
「うん、いいね。ご馳走になろうかな……あっ、ガイア!」
マントを強く引かれて上体が傾ぐ。慌てて体勢を整えながら蛍の指さす先へ目をやると、この距離でさえはっきり判別できるほどあざやかな赤毛が見えた。するすると混雑の隙間を縫い、どうもエンジェルズシェアに向かっているようだ。
「よかったね」
屈託なく笑う蛍へ、ガイアはまず首を竦めた。
「まあ……うまい酒が飲めるって点についてはそうかもな」
「それだけ?」
「ほかに何があるって言うんだ?」
城壁は風の音が鳴るばかりだが、街路はさぞ賑やかだろう。上空の気配になど気づけるはずがない。
ところがガイアの声を聞き拾ったようなタイミングで赤毛がゆらりと動き、上を向いた。城壁に並んで腰かけるガイアと蛍を見つけて足を止めている。
どうせガイア目がけて険しい顔をしているに違いなかった。ディルックの顰め面など、今更見ずともとっくに見飽きている。
「お兄ちゃんが一緒なら、怖いものなんてなんにもないでしょ?」
浅く俯きディルックへ手を振る蛍に、弱まりつつある西日が降りそそぐ。
ガイアはそれを横目でちらっと眺めてから、もう一度脚を組み替えた。
「俺はあいつがこの世で一番怖いよ」
傍らの親友は、今回もガイアの吐露を冗談だと思って軽やかに笑っている。