クレーは背伸びすると、ふっくらした唇を慎重にすぼめて賢明にガイアへ耳打ちしようとする。
「あのね……ガイアお兄ちゃん、これからクレーが言うこと、絶対内緒だよ。誰にも言わないでね?」
シードル湖のほとりへふたりで遊びに行く途中だった。日射しできらきら輝く湖を左手に見る小道で、クレーがふいにガイアのマントを引いたのだ。
クレーに合わせて膝を曲げ、中腰になっていたガイアは、重々しい前置きに対して難しい顔で頷いた。
「誰にもか……アルベドや、ジン団長にも?」
「んっ……んんーっ……そう! アルベドお兄ちゃんは知ってるけど、でもクレーが言ったのは内緒にして! ジン団長にも!」
「ほお」
懊悩の末クレーが下した判断ににっこりする。ガイアは苦悶するクレーの隣に膝を抱えてしゃがみこみ、少し首をななめにした。
「それは俺も心して聞かないといけないな。わかった。誰にも言わない」
「うん! ありがとう、ガイアお兄ちゃん!」
青空に輝く太陽よりもまばゆい笑顔を浮かべたクレーは、ガイアの肩にもたれかかると改めて、あのね、と繰り返した。
「クレーね、小さいときにね、王子様に会ったことあるの……」
「王子様?」
特別な秘密を披露する興奮で、クレーの頬が紅潮してつやつやしている。こっくり頷くあどけない輪郭のまるみがかわいらしい。見守るガイアの口元もつい緩んでしまう。
「なんだよ、妬けるな。俺の大事なお姫様の心を射止めたのはいったいどこの誰なんだ?」
ガイアがわざと大袈裟に唇を尖らせると、爆弾魔のお姫様はいひっ、と照れ笑いをしながらガイアの肩に顎を乗せてきた。
「あのねえ……えへへ、わかんない! それにクレー、今は王子様よりガイアお兄ちゃんのほうがもっと好き」
「アルベドの次に、だろ?」
嬉しそうににっこり笑うクレーの額を人さし指で軽く突っついてやる。
「あのね、ママとピクニックに行ったときに会ったんだよ。ガイアお兄ちゃんみたいにニコニコ笑ってて、クレーにとっても優しくしてくれたの!」
「じゃあ俺だろ」
過日の何某少年へ対抗心をみせるガイアを面白がって、クレーは声をあげて笑った。
「違うよお、ガイアお兄ちゃん」
「なんで言いきれるんだ?」
誰なのかわからない、とクレーは言っていたはずだ。だったら、過去のガイアがクレーに対して親切をしていたとしてもおかしくはないはずだ。当のガイア本人に心当たりが一切ないのを置いておけば、矛盾はなくなる。
ところがクレーは鼻の穴を広げて自信満々だ。ガイアの首に手を回し、信頼と体重を預けてくれながら、クレーは弾む声でガイアの疑問に答えてくれた。
「誰かはわかんないけど、でもクレーちょっとだけなら覚えてるもん。そのお兄ちゃんね、真っ赤な髪だったよ。ガイアお兄ちゃんみたいな眼帯もしてなかったから、海賊でもないでしょ? だからきっと王子様だったんだよ!」
「俺は認めないからな……」
「……君に何かしらの認可を請う必要が僕には一切ないんだが。そもそも開口一番の挨拶がそれか?」
「うるさい」
ディルックに注文することすら今夜は癪で、ガイアはエンジェルズシェアのカウンターに座るなり隅に並ぶボトルを勝手に掴んで懐に引き寄せた。片眉を跳ね上げるディルックの、突き刺すような視線をものともせず、手酌でグラスを満たす。
美しい赤色のワインだった。
「ガイアさん、ここは僕の店だ。君のじゃない。飲むにしろ食べるにしろまずは従業員を通してもらいたい」
「そんなこと、言われなくたってわかってるさ」
「だったら言われないようにしろ」
赤いワインの向こう側で赤毛の男が思いきり不機嫌そうにしている。ディルックの苛立ちをグラス越しに見ながらガイアも下唇を突き出した。まったく納得がいかない。
今もクレーの記憶に残る優しい王子様がこんな男だというのが、本当に腑に落ちない。
「……どうしたんだ。何をそんなにぶすくれてる。いい大人が」
ディルックの呆れ声は余計にガイアをひねくれさせた。ふん、とディルックの十八番を真似して鼻を鳴らす。
「ディルック」
「なんだ」
「……おまえ、これから絶対にクレーの前でにこにこ笑ったりするなよ」
「……は?」
珍しい、心底から戸惑うディルックの声だ。
「けどクレーが怖がるから仏頂面も駄目だ。加減を考えろ。いいな」
「……君、ここに来る前から酔っていたのか? それともどこかで頭を打ったのか?」
「いいから。いいな」
「何がだ……」
困惑しきりのディルックを無視してワインを呷る。濃厚な香りが鼻に抜けてから、もしかすると高価なワインを勝手に開けてしまったかもしれない、とうしろめたくなったが、すぐに気を取り直す。いいのだ。やけ酒だ。根が張るくらいでちょうどいい。
まったくおもしろくない。
ガイアの妹分とガイアの義兄が、ガイアの知らないところで過去を共有していた。
だからそれをずるいと思うくらい、どうしてガイアを呼んでくれなかったのだと思ってへそを曲げるくらい、ディルックは許すべきなのだ。