休み休み

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春は咲き

 

 

「師匠! これは?」
「石楠花」
「これは?」
「躑躅」
「これは?」
「それも躑躅だ。色が違うだけ」
「ふうん。じゃあ、これ?」
「芍薬」
「これと、こっちは?」
「虎の尾と銀露梅。……よく見つけたな」
「師匠すごい! 何でも知ってるね!」
「たまたまだ。以前、龍遊で話をした妖精がいるだろう? 彼女に教わったことがある」
「あー、なるほどね」
 鞠のように跳ね歩く子どもから舌っ足らずに呼びかけられる、師匠、の二文字は、春を迎えた山野に雪解け水が染み入るようなやわらかさで无限へ届く。妖精といえども生まれたて。話を聞いてみればいまだ齢十にも満たないような小黑だ。
 ひとならざる力を持とうが魂は無垢でいとけない。飢えた腹を満たすがごとくに次々と未知に食らいついては味見をしたがるので、小黑につられて无限の世界も彩りを変えるようなのだった。独りであればただ通過するだけだった山道が、小黑とともに歩くだけで素朴な花園にすらなる。
 甘やかな香りを放つ花々で、いつのまにか小黑のふくふくした両手はいっぱいだ。
「小黑」
「なに?」
「花を。少し持つよ」
 満面の笑みの童子が花を抱える姿は微笑ましく、また佳いものだが、まだ手足の短い小黑が時折石や木の根につまづきそうになるのは危なっかしい。
 片手ぶんを受け取るつもりで手を差しのべたところ、しかし小黑はなぜだかにやっとした。
「いいよ持たなくて。でもさ、ね、ね、師匠、ちょっとしゃがんで」
「……わかった」
 早く早くと急かされながら膝を抱えると、小黑と同じ目線になる。紅潮するあまり林檎のようにつやつやする頬の上で、小黑の瞳は期待に満ちてまばゆいほど輝いていた。
「へへっ。ね、ぼく、師匠のことかっこよくしてあげる!」
 龍遊で出会った妖精から花を一輪もらったのだ。そのとき小黑は仔猫の姿で无限の肩にいたから、咥えた花をそのまま、すぐ横にある无限の耳元へすっと差しこんだ。
 あれを思い出したに違いない。
「じっとしててよ師匠。動かないでね」
 あのころには、こんな未来があるとは思いもしなかった。
 これからも无限ひとりで歩きつづけるはずだった道に小さな足跡が増え、隣に並んでいる。ひたむきに向けられる信頼は无限の世界を明瞭にした。
 溜め息すら、今は笑みを含む。
「では、任せた」
「任せて!」
 まるい指がせっせと无限の髪に触れるたびに花の香りが強くなる。少しずつ重く、絡まっていく毛束の感触に微笑んで、少し目を伏せた。
 あまりに得難いものを前にして、瞼を濡らしてしまいそうだったのだ。
 こんな日々が掌中にあることをまだ信じられない。いっそおそろしくすらあった。一般的な人間が脳裏に描く平穏と遠く離れるようになってかなりの時が経つ。
「師匠?」
 甘えきったこの声に救われているのは无限のほうだ。
「師匠、痛い? ぼく変に引っ張っちゃった?」
「そんなことはないよ」
 でも、とまごつく様子の子どもを抱き寄せる。すぐにくたりと体重を預けてくれる小黑の、雪のような髪に春の花のひとひらが落ちた。
「山を越えたら小さな町がある。そこで食事にしよう」
「えっ、早く言ってよ! 師匠の髪ほどかなきゃじゃん」
「どうして? 必要ない」
 花の香りを久しぶりに感じた。ぬるんだ空気や若い緑に意識を留めたのが何年ぶりかを思い出せるはずもない。今、が、あまりにも新鮮に更新を続けていくこの感覚がかけがえなかった。こみ上げるあたたかさに従うまま、無邪気な子どもへ微笑みかける。
「格好よくしてくれたんだろう、小黑」
 春は无限の胸の内にも咲いている。