一緒に過ごした時間はほんのちょっぴりだったかもしれないけれど、まるっきりの善意でも、なかったのかも、しれないけれど、でもあのときの小黑が欲しかったものすべてを確かに暮れた風息は、やっぱり何度思い出したって本当なのだ。
うまく気持ちを言葉にできなかったけど、つっかえつっかえそう呟いた小黑に、无限はそっと微笑みかけてくれた。
「それでいいんだ。考えなさい、小黑。おまえはおまえの心を自分で決められるのだから」
「……うん。師匠」
无限は小黑の術の師匠で、人間の世界についてたくさんのことを教えてくれる人でもある。もう小黑は无限にもらったおこづかいで買い物もできるし、電車の切符だって買える。きっとそのうちホテルのチェックインだって覚えられて、それに、人間みたいに料理ができるようにだってなるだろう。早くそうなりたい。无限の作る串焼きは絶望の味がする。
そうして无限と一緒にいろんな場所に行くのが小黑はとても楽しい。ひとりでさまよっていたころの、煤けて息苦しかった記憶が嘘のように、无限と歩く町はどこもかしこも色あざやかできらきらしている。
无限と一緒にいろんな場所にいくのは楽しい。
楽しいのに、裸の山がぱっくり半分削り取られて地層を露出しているのを見たり、腐った水が澱む排水溝に生えるおかしな色の木を見つけると、どうしても小黑の胸はきゅうっとちぢこまる。故郷の山や、風息のことを思い出す。
そうすると風息の怒りで歪んだ顔だとか、ぼろぼろになりながら最後まで戦おうとした燃えたぎる瞳だとかが苦しい胸の中をぐるぐるぐるぐるしだすから、小黑は息ができなくなってしまうのだ。
怖くて苦しくて、どうしたらいいかわからなくて、ぎゅうっと胴着を握りしめながら小黑はちっちゃな声を絞りだす。
「ししょう……」
「どうした。小黑」
无限はこういうときはいつも地面に膝をついて小黑と視線を合わせてくれる。小黑がどんなに小さな声で呼んでもすぐに気がついて、名前を呼んでくれるのだ。
「師匠、だっこして」
少しななめに傾いだ首へ、小黑は懸命に両腕を伸ばす。ふっ、と无限の呼吸が笑って、頼もしい腕が軽々と小黑を抱えあげる。
この腕と、この胸の隙間が、世界で一番安心できる場所だ。小黑の居場所だ。ぐすんと鼻を鳴らして擦り寄った。
「ねえ師匠」
「うん?」
「どうしたら、わからないことがわからなくなくなるの?」
壊れた自然を見つけると、小黑は絶対に風息を思い出す。風息は小黑よりずっとずっとたくさん、こういうものを見てきた。
嫌だったろう。腹が立ったろう。さぞかし人間が憎らしかったろう。そういう気持ちは、小黑にだっていくらか理解できる。でも、だからといって風息がやろうとしたことが正しかったとは、どうしたって思えなかった。
わかるけれど、わからない。それが小黑はとても苦しかった。
「ひとつは、わからないものについて考えつづけること」
歩きだした无限の腕が小黑を優しく揺らす。
「ほかにもあるの?」
「ある」
无限は無造作に路地裏へ入るなり、小黑を抱えたまま跳んだ。たったか壁を駆けあがってたどり着いた屋上には気持ちいい風が吹いている。ゆらりと流れる无限の髪を追いかけて上がった小黑の視界に、空は突き抜けるように青い。
「もうひとつは……そのわからないものの周囲を見渡してみること」
「周り?」
「今は何が見える、小黑」
微笑む无限が見える。
青い空と灰色のビルと、ぴかぴか光る車、どこまでも続く道、はるかかなたに霞む山々と、緑が見える。
「わかんないよ。いっぱい見える。わかんないのがいっぱい」
「ならおまえは、もっともっと知らなければいけない。ここから見えるすべてのもの、それらの先に広がっているより多くのものも」
「ええ……そんなに?」
「そうだ。そうして、ここへ帰ってくる」
ここへ、と言って、无限は小黑の胸を人さし指でとんと突いた。わからないままではあるけれど、もう苦しくない。
「そのときになって初めて見えるものがある」
「そっかぁ……」
考えるって大変だ。
大変だけど、きっと諦めたり投げだしたりしたらいけないのだ。
「ね、師匠」
「ん?」
腕の中で小黑がぐるぐる動いたって、无限はびくともしない。それをいいことに肩に縋って立ち上がってみる。さっきより少しだけ、遠くまで見える気がした。
「世界って広いんだね」
小黑は无限と一緒にたくさんのことを知りたい。いろんなことを勉強して、そしていつかまた、風息に会いに行くのだ。絶対に。
「そうだな」
日射しを含んだ風が吹く。
ほんの僅かに混じる緑の香りは、次の季節の訪れを報せようとしている。